(聞き手)
震災から時間が経って出てくるような問題点などはございますか。
(駒月様)
私は少し落ち着いてきていたころに避難所に行きましたが、その頃は経済的に自立していて自分自身で立ち直れる人は出てしまった後でした。
けれども、出ていきたくても出ていけない人がたくさんいらっしゃいました。
そんな中で仮設住宅の説明会が行われました。
これは私が市職員から聞いたのではなくて避難所に避難している方から聞いたので、実際のところはわかりませんが、当初、優先的に入居できたのが高齢者だったということでした
。多賀城市には安価な民間の賃貸アパートは少なかったらしく、本当に乳飲み子の赤ちゃんを抱えた若い夫婦なども未だに残っている状態でした。高齢者の方は皆と居た方が安心できるという方もたくさんいらっしゃいましたし、赤ちゃんを抱えている方は優先的に入れるといった柔軟な対応もできたのではないかと
思います。
また、避難者の方は職を失った方が多く、生活保護の申請をしたけれど、結果的に多賀城市に断られたという方の話も伺いました。
給付金を貰える予定だから、それまでは生活保護を受けられないと言うのですが、その給付金はまだ貰えない訳です。
その方は早く自立がしたいので生活保護を受けて外に出たいと言っておりました。
震災後、数カ月くらいになれば、そういったフォローも必要になってくるのではないかなというのを強く感じました。
それと、中学生や高校生の子も避難所にいて、自分のおじいちゃんとかおばあちゃんではないけれども、隣のボックスに住んでいる足が不自由なお年寄りのために味噌汁とか食事を運んでいる姿を毎日見ました。
その度に、おじいちゃんとおばあちゃんがその子に感謝をして、その子は自分が必要とされる存在だと分かる訳です。
私は、必要のない人間はひとりもいないと思っていましたが、それを見て、そういうことを、後世の
子ども達に伝えていければいいと
思います。
(聞き手)
松本さんは、阪神・淡路大震災の時の
支援の在り方を取りまとめたものを見ながら、今回の
支援をまとめたということですが、17~18年前にもなる昔の行政文書となると、今後は保管期間の問題なども出てくると
思います。
こういった震災の記録をどう残していくかという問題が、被災地で出てきています。
過去のそういった事例というものが、たまたま記憶としてあったのか、資料として眠っていたのか、どういう形で残されていたのかをお聞かせ頂きたいと
思います。
(松本様)
阪神・淡路大震災の時は、現在の健康福祉部にあたる、当時の民生部が最初に動いていました。
先程の話に出た、行政
支援に交互に行った人間が帰ってきた時に、レポートのようなものを書けと言われて書きました。
中身は汚い字で書かれている記録集ですが、後日、きちんと製本されました。
新潟中越地震の時には、偶然ですが、私は人事課にいましたので、その時の資料を引っ張り出したような記憶があります。
本当は役に立たない方が良いのですが、意外なものを、意外な場面で、また見直すことになったと
思いながら捲っていました。
阪神・淡路大震災は鮮烈でしたけど、本県から現地へ行った職員はそれほど多くなかったと
思います。
今回の東日本大震災ではその時と桁が違う人数が
支援に行っています。
今回のレポートは取りまとめてはいませんが、職員の潜在的なノウハウとしては相当に大きなものを貯められただろうと
思います。
(聞き手)
今日は本当にありがとうございました。