防災・減災への指針 一人一話

2013年11月22日
応援自治体職員の声 ――岐阜県―― (後編)
岐阜県職員 総務部人事課 課長補佐兼服務係長
松本 順志さん
岐阜県職員 商工労働部 観光交流推進局 観光課 課長補佐兼観光企画係長
板津 浩司さん
岐阜県職員 商工労働部 商工政策課 団体支援係主査
駒月 良美さん
岐阜県職員 総合企画部 市町村課 財政係主査
佐々木 寿志さん
岐阜県職員 環境生活部 少子化対策課 課長
新谷 哲也さん

「引き継ぎ」の大切さ

(聞き手)
 今回の応援活動で、どのようなところがうまくいったのか、うまくいかなかったのか、というところを教えていただければと思います。

(板津様)
 先程も少しお話したように、概ねルーティン化しつつありました。先に入った愛知県が、日々の生活の流れをパソコンで入力することを始めてくださっていましたので、それを改善していく形で業務を進めていきましょうと話し合いました。
この作業で先遣隊との引継ぎがうまくいきましたし、うまく引継ぎをしていく事が「一番大事」ということで特に気を使いました。
最初に市役所に伺った時に、菊地市長からも「できれば避難所に他県からの応援職員を入れて、市職員はなるべく避難所運営業務から移して、本来業務に戻したい」という話をいただいていたので、そこを意識して、市職員が早く進めなくてはいけない罹災証明や復興に向けた動きに入っていけるように、とにかく仕事を我々が引き取れるような体制を作っていくようにしました。
市長から明確に方針を示していただいたことは良いことだと思いました。
 大変だったことは沢山ありました。
いくつか例示すると、最初はインフルエンザが流行したことです。避難所内で少し蔓延気味になってしまったこともありました。
 次に、風紀の問題です。発災から3週間目でまだまだ大変な時期ではありますが、避難所は少し落ち着きかけていた時です。
しかし、夜になると避難所に、被災していない地区の子など、避難者以外の人なども学校の教室に集まったりしていました。
その状況が2,3 日続き、警察や市役所等にお願いして解散させたりしました。その辺は、これからの避難所を考える時に大切な問題かなと考えて印象に残っています。
 それから、帰宅ができない高齢者の中で徘徊する方が発生し、どこから来てどこに帰ったらいいのかわからないような状況が日中に発生した事がありました。
日中の避難所は、人が出払っていてお互い誰かも分からない人が多く、また、顔を見知った市職員でないと対応できない部分でもあり、我々応援職員だけでは大変だなという風に思いました。
 後半は、インフルエンザやノロウィルスの流行で、ばたばたと人が倒れ、救急車を呼んだりと大変でした。
本来は救急車を呼ぶ状況ではなくても、皆さんも3週間目の避難生活に入られて体力がかなり弱ってきていて、どうしても救急車に頼りたくなる状況もあり、大変でした。
多賀城中学校は、居住地区で体育館や教室に入る人を分けており、教室の方は比較的少人数で、地区もきっちり分かれているので、自治会のような感じで、自分達でほとんどの運営をやっていただいておりました。地区別に分けていた利点もありましたが、一旦、病気が発生すると、途端に悪い面も出てきまして、排他的な感じのナーバスなやり取りがあり、なかなか難しいと思いました。

(聞き手)
 苦労の中で、方言の問題はありませんでしたか。

(板津様)
 特段問題はありませんでした。言っていることが分からないというのは無かったです。

高揚感と心身のバランスへの注意

(聞き手)
 逆に良かったことは何でしたか。

(佐々木様)
 避難所の運営とは若干異なっていますが、良かったと思うのは自前の移動手段を持つことができたことです。今回は車でした。
被災したり、日々の業務でフル稼働となっている市役所の公用車を借りる訳にもいかなかったので、自分達の足ともなる車を持っているという事は非常に便利でしたし、避難所を回る上でも良かったと思っています。
一方、私の仕事に関しては、職員の心身の健康管理を行う上で、ある意味、深く避難所の運営に入らずに少し距離を置けたことが良かったと思います。
応援職員は皆、非常に高い士気をもって現地に入りますので、一生懸命働き、様々な支援ニーズも拾い上げてくれました。
同時に、被災地という特殊な環境で、ある種の高揚感もあり、ともすれば心身のバランスを失って無理をしかねません。
幸いそのような職員はいませんでしたが、客観的に見ることで職員をサポートできたと思います。
それから市役所内に拠点を置かせていただいた事です。情報収集でも役に立ちましたし、市職員とのコミュニケーションを取れたのは良かったと思います。
とにかく、市職員は皆さんお忙しくて、ゆっくり打ち合わせなどということもままならない状況でしたので、ちょっと廊下で立ち話をしたりする事で打ち合わせができたり、生のニーズが判ったりする事も多かったです。
同時に市職員の方にも、分け隔てなくお話をしていただいたので、良かったと思います。
 それと、多賀城市役所には、宮城県職員がお一人、市と県との連絡調整のために駐在しておられました。
その方とは県同士という立場で話ができて、宮城県庁の情報を提供してもらえたり、県の担当課に繋いでもらえたりもできたので、そういう意味でも市役所の中に入れていただけたというのは良かったです。
 我々は、職員の健康管理だけでなく、職員の健康管理にプラス御用聞きという仕事でしたので、現場のニーズを踏まえながら、足りない物、あると困る物、いらない物というのも選別して岐阜県からの支援を行うことができたのは、効果的な支援という意味でも、多少なりとも多賀城市のお役に立てたものと思っています。

支援を受ける側とする側のミスマッチ

(聞き手)
 現地ならではの苦労やうまくいかなかった点はございますか。

(佐々木様)
 うまくいかなかった点と言うと、岐阜県で考えている良かれという事が現地ではそうではない事も多々ありまして、それをうまく調整するのに苦労しました。
ニーズをどのように支援する側に伝えていくかという課題が常にあると思っています。
 例えば、岐阜県から食料関係の支援物資を送りたいという方も大勢いましたが、全部の避難所に平等に配れる数量ではないため、お断りしたことがありました。
また、どうしても災害の時はレトルトの物が良いだろうと思われがちで、たくさん話がありましたが、保管スペースの問題もありましたし、食事の際に大量のレトルト食品にお湯を通して供給する環境がないため、お断わりしたという事もありました。
それから、食器が洗えないなら発泡トレイや紙皿がいいでしょうというお話もありましたが、浅いお皿だと食べ物がうまく盛れず、また食べにくいという事で、それもお断りしたことがありました。
ただ、「送っていただけるなら深い皿にしてください」とお願いをしたところ、「それなら送れますよ」というように、調整した結果、うまくいった事もありました。
 テレビの報道等でクローズアップされると、急に「何か支援しなければ」という話になり、衣料品でも、着られないような古着まで送られてくるという話もありましたが、我々が間に入ることでその折り合いを幾分か調整できたのではないかと思います。
あとは、「いついつに激励や炊き出しに行きたいから何とか調整して欲しい、それでこういうのを作りたい」と言うような話が入り、その調整に振り回された事もありましたし、「こちらでは対応できる設備が無いから作れません」と回答せざるをえない事もありました。
現場の状況を、もっと我々も発信しなくてはいけなかっただろうし、そういう前提を支援する側も理解しなくてはいけないと思いました。
まずは現地の状況やニーズに合わせるという事をもっとしなくてはいけないとも思いました。

(聞き手)
 やはり現地支援連絡員の役割で一番大きかったのは、そういうところですか。

(佐々木様)
 そうですね。私も職員の健康管理だけで行っていたら、こういう事に触れることはなかったでしょうし、岐阜県からの支援物資も、ニーズに合わない、使われない物が送られていたかもしれないので、調整の甲斐がありました。
例えば、小さいことかもしれませんが、避難所の方が、避難所支援の本県職員に透明なゴミ袋は沢山あるが、中身を見られたくないゴミもあり、活用できていないということをぽろっと話されたそうです。
その話を職員が我々に伝えてくれて、それなら黒いゴミ袋を岐阜から送ってもらおうという話になり、それを避難所で配ったら、すごく重宝してもらえたという話もありました。
ちょっとしたニーズを岐阜に戻ってから伝えるのではなく、その場で聞いてすぐ調整できるというのは、本当に良かったし、お役に立てたと思っています。

派遣職員の心身のリフレッシュ法

(聞き手)
 心身の健康の維持で、特に大変だったことは何でしたか。

(佐々木様)
 避難所支援の本県職員は、やはり避難所にいるという事で、遊興関係・お酒関係は一切駄目ということで動いておりました。
新谷課長と私のような現地支援連絡員として長期駐在した者も、互いでケアをしていました。
ただ、新谷課長とは、職場が一緒になった事はなかったので、ふたりでいきなり10時間掛けて車で多賀城市へ向かって、37日間も一緒にいるというので、正直いえば、最初はこの人とうまくやっていけるのかなと、お互いに思っていたと思います。
 そこは吊り橋効果ではないですが、被災地という状況、また被災地のお役に立ちたいという思いは共通でしたし、現地に入れば意外にシンクロしました。
また、車もあったので、例えば日々の避難所確認の道中に多賀城の現状を把握するため、行った事の無い所へ行ってみよう、どういう状況か見に行ってみようと、気分転換ではないですが、見に行ったりしました。
あと、先程も話した、宮城県からの派遣で多賀城市役所に駐在していた県職員の方が石巻市の出身だったので、石巻の視察に連れて行ってもらうこともありましたし、塩釜市や七ヶ浜町にも行きました。
被災地を目にすることは、当然それなりの心理的なショックはあります。
でも、自分はこのために来たという気持ちで、気も張っていましたので、健康面はさほど問題なかったです。
あとはホテル住まいという事もあり、部屋に戻ればその時間はプライベートというか隔絶された時間が取れるので、そういう意味ではスイッチの切り替えができたと思います。
また、ホテルの目の前に飲食店などもあったので、新谷課長と「現地でお金を使うことも大切だ」などと言いながら、夜にそこへ行って食事をしたり、あれこれ話をしたこともありました。
 あとは市内のスーパーに買い物に行って、店員さんと何気ない日常会話をしたりして、長期滞在ならではの過ごし方やメリハリのある生活をさせていただいていたので、その点では気が楽でした。

(聞き手)
他のところでもそういうお話はありますし、心労が溜まるところもあると思うので、リフレッシュは重要だと思います。
駒月さんは、いかがでしたか。

(駒月様)
 震災から少し時間が経過した状況の中で、私が派遣されたのは1番大きな避難所だったので物資はかなりありましたが、他の避難所では物資が足りていないという事を聞き、応援職員同士で連絡を取り合って、現地支援連絡員を通して「この物資をあそこの避難所に持っていって」などと、物資を動かしたりしたこともありました。
現地の自治体はそんなことまで対応することは難しいと思いますので、そのような応援職員の裁量も必要だと思いました。
 避難所の中には病院に入れないような、軽微な病人の方が結構いらっしゃいまして、「糖尿病なのでポカリスエットを何本かくれないか」など様々な要望が寄せられました。
そういう軽微な病人の方のケアというのはやはり難しいと強く感じました。

経験の共有化を図る手立て

(聞き手)
 今回の経験を、岐阜県としてどのように活かしていきますか。

(松本様)
 避難所へ支援に行って戻ってきた職員は、ある意味、多賀城のファンになったというか、その市民の方と触れ合った体験という非常に大きなお土産を貰って帰ってきたという感じです。
2013年8月に、多賀城市に派遣された職員が集まり、避難所運営支援活動の報告会を1度やりました。
その時には応援に行った職員だけではなくて、県内市町村職員にも集まっていただきました。
避難所運営マニュアルと避難所の運営指針は、派遣職員の体験を入れて作り直しました。
それで避難所というのはこういう事が大事で、こういう事に問題があるといったものを取りまとめました。
実際に、一義的には市町村が避難所を運営する担当になりますから、今回派遣された応援職員がもらってきた細かい知恵であったり、気付いたところを取りまとめて、市町村にできるだけフィードバックするような企画を作ったりという事がありました。
 県職員は、市町村と国の間ですので、住民の方と直接触れ合ってお役に立てる機会はなかなかありません。
その中で避難所の支援という仕事は、直接お役に立てるという事で、公務の初心に立ち返ることができましたし、そういう感覚を持った職員が大変多かったような印象です。

(板津様)
 県の人事課や危機管理の担当は、持ち帰った情報を活かそうと大変熱心に取り組んでくれました。
情報の共有も県庁の中で図られ、様々な形で活用できているのではないかと感じます。
派遣された職員が地元に呼ばれて話をして欲しいと言われるような事もあり、そういう面でも、凄く経験が活きていると思っています。

(聞き手)
個人レベルの教訓としてはどのようなことがありますか。

(板津様)
 避難所の掲示板に多数のメッセージが貼ってある状況でした。
それを見て、今まではあまり意識しませんでしたが、やはりいざという時に連絡が取れる仕組みは大事だなというのを感じましたので、災害伝言ダイヤルの使い方を息子などに徹底しました。

子どもたちへの伝えと新たな繋がり

(聞き手)
 ご家庭や、お子さんに関する点では何か問題はありましたか。

(佐々木様)
 派遣された期間が長かったので、当然、家庭の状況として父親がいないという事は、子供の通う小学校にも伝えてありました。
すると多賀城から戻りましたら、小学校から、子どもたちに現地の状況について話をしてほしいという依頼があり、全校集会で話をさせて貰いました。
子どもたちも震災から3カ月ほどが経ち、報道ですでに様々な映像を見ていましたので、ただ写真を見せたり、映像を見せたりするだけではなく、多賀城の空気感を伝え、また考えてもらうことに重点をおきました。
例えば、当時の避難所で最初の頃の食事だった、大きいスナックパンとペットボトルのジュースを実際に見せて「これで1日過ごせる?」「毎日続いたらどう?」という具合も問いかけました。
 その後、娘のいる3年生のクラスで、もう少し深く話を聞きたいという事で授業にも呼んでもらい、子ども達と「自分達の防災意識を高めよう」、「東北の事を忘れてはいけない」と話し合いました。
東北のことをいつも思っていたいという意識が、私もそうですし、家族や子ども達にも芽生えて、今でも東北とのつながりを意識的に持てていると思っています。
その後、私は、発災のちょうど1年後の3月11日に、今度は別の業務で、岩手県大槌町へ行きました。
大槌町は、多賀城よりも酷い部分も多くて、改めて被害の大きさが身に染みました。
また、大槌町の職員ともいろいろとお話させてもらいましたが、震災直後に多賀城に1カ月お世話になったことが話のきっかけになったということもありました。
また、大槌でもいろいろと教えてもらった事を、今度は岐阜に持ち帰っていろいろな人に伝えることもできました。
小さい事ですが、大槌で貰った震災を乗り越えたヒマワリの種を地元の小学校へ渡したら、それを育ててくれて、今は授業参観の日に来た保護者に、「大槌のヒマワリです」という事で子ども達が配ってくれています。
たった数粒の種から始まりましたが、少なくとも私の地元で、被災地の事を思って大槌のヒマワリを咲かせてくれている人がいるという事で、遠く離れていますけど繋がりを残せているなと思いました。
その後、新谷課長と、多賀城の皆さんや宮城県庁の方と連絡をとったり、お酒を送り合ったりなどをしています。
お互いに、もし、今度またこういう事があったら、すぐに駆けつけるという繋がりができました。
震災は本当に不幸でしたが、それによって生まれた繋がりというのはこれから大事に育てていきたいなと思っています。

自発的に作られた引き継ぎマニュアル

(聞き手)
 現地支援連絡員のマニュアルというのは作成されましたか。

(佐々木様)
 自分はメモを残していますが、日々の業務の記録に留まってしまい、何かノウハウを抽出して、それを、例えば、マニュアル等に入れ込むというところまでは、正直できていませんでした。

(駒月様)
 今の話の続きですが、リーダーが避難所のマニュアルを作っていました。前の班の人と半日だけ被る時間があり、その時に引継ぎがなされました。
引継ぎ用のマニュアルがいつの間にか自発的に作られ、そこに業務内容等が記載されていました。
 また、避難所では本当にいろいろな方から声を掛けていただきました。
ある男性の方に「あんたらに期待する事というのは、もし岐阜県で同じことが起きたら、どういう風に避難所を運営していったらいいかとか、どんな風にしたら役立てる事ができるかとか、そういった事を学んでいってくれたらそれでいいので頑張ってね。」という風に声を掛けて貰えたのが一番心に残りました。
やはり私達が県という立場で、例えば岐阜県で災害が起きた時に何ができるかと考えた時に、直接、避難所支援を行うということは、県の立場上ないと思います。
そうなると避難所に派遣されて状況を知っている人間が、県側にある程度いるというだけでも非常に財産なのではないかと思っています。
それと、避難所の状況は移り変わりが激しく、1カ月前に派遣された職員に聞いていた状況とも全然違うものでしたから、刻一刻と避難者のニーズが変わる事を分かっただけでも、得るものがあったのではないかと思います。
 個人的には、南海トラフが危ないと言われているにも関わらず、災害に対する備えは一切していませんでしたが、この経験以降、きちんと備蓄するようになりました。
何が必要か分かったので、水と最低限の食料と寝袋は買いました。支援をやらせていただいて、そういうところだけでも非常にプラスになっています。

(板津様)
 被災地の方は、凍死で亡くなられた方が多いという話をお伺いしたので、石油ファンヒーターをストーブに替えました。
石油ファンヒーターは電気が無いと動きませんから。

岐阜の子どもたちの心の中に東北への思いを育てたい

(聞き手)
 今後の復旧・復興についてお考えを教えてください。そして、後世に伝えたい事、教訓というのは個人レベルでもいいですし、県レベルでも構いませんので、お話を頂ければ有難いです。あとは自由なご意見を頂ければと思います。

(松本様)
 同じ公務員が頑張っていらっしゃるので、同業者としてシンパシーを持って応援したい気持ちがありますね。
派遣された職員の中には、時々、東北へ旅行している職員もいます。
忘れずに東北の物を買うとか、できれば東北へ足を運ぶとか、そういう気持ちというのは「ALL JAPAN」という言葉に表れていると思うので、今後も、東北の情報が発信されるといいかなと思います。
 復興に向けての考えというのは難しいですね。
自分の県が被害を受けたらどうやって立ち直るのかと思いますし、ここまで大きな災害は想像が付かない世界ではありますが、時間は掛かるでしょうけど、頑張っていただきたいと思います。

(佐々木様)
 発信と言う意味で言うと懸念しているのは、毎年3月11日の前後だけ報道特集や行事をやるような、いわばメモリアルな事になってしまうことです。
先の戦争と同じで、「今年で何年」と、3月11日の前にだけ話題になって、だんだん薄れていくという事にはなってほしくないと思っていて、できるだけ情報は自分からいつも取りにいくようにしています。
 もちろん忘れて前に進みたいという方もいらっしゃるとは思いますが、インターネットでもいいですし、日常の些細な事でもいいので発信し続けて頂き、我々もあの時を忘れない、後世に伝えるという取り組みが本当に重要で必要だと思います。
その意味で、この「たがじょう見聞憶」という、多賀城市のアーカイブ事業は大変意義のあることだと思いますし、まとめていただいたら、ずっと見続けていきたいと思っています。
 あとは、東北が可哀想だから応援するというのではなくて、一生懸命頑張っている人と一緒に手を携えていくという、そういう気持ちでいつもいたいと思っています。
私自身も2013年の夏は福島へ家族と旅行に行きました。
 2013年は、「八重の桜」や「アテルイ伝」、「あまちゃん」など、メディアも東北地方を取り上げて、盛り上がりました。そうしたある種のブームが下火になっても、いろいろと東北の今を伝える事をしていただけるといいですね。
ちょうど「アテルイ伝」には、関係者が製作に携わっていたので、「いい時に東北を伝えるいいものを作っているね」と話をしました。
そういうものを見て多賀城の歴史を知ってもらうという事でもいいし、震災の映像だけではなくいろいろな関わり方があると思います。
 あとは岐阜県民に対して思うのは「もうすっかり忘れていませんか」という一言です。
企業に対しても人に対しても、今回の震災や東北のことを忘れずにずっと関わり続けていくということを多くの人に訴えたいと思っています。その意味で話が戻りますが、岐阜の子ども達の中に東北への思いというものを、ぜひ育てていきたいと思っています。

被災地区と被災しない地区の互助体制

(聞き手)
 印象に残っていることや、気がかりな点などもあれば併せてお願いいたします。

(板津様)
 私は各論ベースで思い出した事を言いますと、1点目は、化学工場等からタンクが流出して、危険物質や薬物が何本行方不明になっているという情報が避難所に張り出されてあったのが、凄く印象に残っています。
復興にあたっては、嵩上げをして、再び工業地帯にされると思います。
今後の津波に備えて、危険物の流出対策や保管体制等というのはしっかりやられていると思うので、そういうものを共有できるように発信していただければと思います。
 2点目は、津波被災地域外の問題というものが結構あると思っています。
少し高さが違うだけで津波に遭ったところと遭っていないところがあって、被災していない地区は、被災した地区を助けてという互助体制で一所懸命やられていたとは思います。
しかし、どうしても、被災した地区の人達が、被災していない地区を羨む気持ちとか、虐げられた気持ちとかというのは、心の問題としては、きっとあると思いました。
従って、被災地区と被災していない地区が互助体制を取る事をマニュアル化していくというのは、大事ではないかと思います。
善意だけに頼るのではなくて、いろいろな事を想定して実際行えるといいのではないかと、その当時に思いました。
 3点目は、多賀城の死者188人の方の死因等は分析されたのかが気になりました。
隣の七ヶ浜町は殆ど壊滅状態に近くても、意外に死者が少ないと思いながら見比べていた覚えがあります。
多賀城市は人口が多い分、亡くなった方も多いのかなと思いながらも、津波の高さは隣の七ヶ浜町等と比べるとだいぶ低かった印象もある中で、どうして死者の数が多かったのか、そこにどういう分析をされたのか個人的には気になっているところです。
そういうところを分析してくれると今後の対策もできますし、復興を考えていく中でレポートもまとめられるといいかと思っていました。
 4点目は、被災後もお店が営業していることが一番大事という事です。スーパーが開いているとか食堂があるとか、何か物を売っているのが大事だと思いました。
これは戦争の直後と同じ現象だなと見ていましたが、やはり商売を始めていることが人の心に安堵感をもたらすというのは強く感じました。これに関しては具体的なアイデアはないのですが、避難所の運営や物資の支援というものではなくて、早い段階で商売がされるような仕組み、お金を出して物が買えるという状況を早く作り出すことで、きっとみんな元気になっていくだろうというのは思いました。我々も工夫しなくてはいけないですね。

社会的弱者である被災者への支援の在り方

(聞き手)
 震災から時間が経って出てくるような問題点などはございますか。

(駒月様)
 私は少し落ち着いてきていたころに避難所に行きましたが、その頃は経済的に自立していて自分自身で立ち直れる人は出てしまった後でした。
けれども、出ていきたくても出ていけない人がたくさんいらっしゃいました。
そんな中で仮設住宅の説明会が行われました。
これは私が市職員から聞いたのではなくて避難所に避難している方から聞いたので、実際のところはわかりませんが、当初、優先的に入居できたのが高齢者だったということでした
。多賀城市には安価な民間の賃貸アパートは少なかったらしく、本当に乳飲み子の赤ちゃんを抱えた若い夫婦なども未だに残っている状態でした。高齢者の方は皆と居た方が安心できるという方もたくさんいらっしゃいましたし、赤ちゃんを抱えている方は優先的に入れるといった柔軟な対応もできたのではないかと思います。
また、避難者の方は職を失った方が多く、生活保護の申請をしたけれど、結果的に多賀城市に断られたという方の話も伺いました。
給付金を貰える予定だから、それまでは生活保護を受けられないと言うのですが、その給付金はまだ貰えない訳です。
その方は早く自立がしたいので生活保護を受けて外に出たいと言っておりました。
震災後、数カ月くらいになれば、そういったフォローも必要になってくるのではないかなというのを強く感じました。
 それと、中学生や高校生の子も避難所にいて、自分のおじいちゃんとかおばあちゃんではないけれども、隣のボックスに住んでいる足が不自由なお年寄りのために味噌汁とか食事を運んでいる姿を毎日見ました。
その度に、おじいちゃんとおばあちゃんがその子に感謝をして、その子は自分が必要とされる存在だと分かる訳です。
私は、必要のない人間はひとりもいないと思っていましたが、それを見て、そういうことを、後世の子ども達に伝えていければいいと思います。

(聞き手)
 松本さんは、阪神・淡路大震災の時の支援の在り方を取りまとめたものを見ながら、今回の支援をまとめたということですが、17~18年前にもなる昔の行政文書となると、今後は保管期間の問題なども出てくると思います。
こういった震災の記録をどう残していくかという問題が、被災地で出てきています。
過去のそういった事例というものが、たまたま記憶としてあったのか、資料として眠っていたのか、どういう形で残されていたのかをお聞かせ頂きたいと思います。

(松本様)
 阪神・淡路大震災の時は、現在の健康福祉部にあたる、当時の民生部が最初に動いていました。
先程の話に出た、行政支援に交互に行った人間が帰ってきた時に、レポートのようなものを書けと言われて書きました。
中身は汚い字で書かれている記録集ですが、後日、きちんと製本されました。
新潟中越地震の時には、偶然ですが、私は人事課にいましたので、その時の資料を引っ張り出したような記憶があります。
本当は役に立たない方が良いのですが、意外なものを、意外な場面で、また見直すことになったと思いながら捲っていました。
 阪神・淡路大震災は鮮烈でしたけど、本県から現地へ行った職員はそれほど多くなかったと思います。
今回の東日本大震災ではその時と桁が違う人数が支援に行っています。
今回のレポートは取りまとめてはいませんが、職員の潜在的なノウハウとしては相当に大きなものを貯められただろうと思います。

(聞き手)
今日は本当にありがとうございました。